2017年7月20日木曜日

病院関連 9月の年休を取り消す

 今日は医局の秘書さんのところに行って、9月の年休の取り消しをしてきた。イスラエルよさらば。10月分は10月からでなければ申請を受け付けていないので、イギリス分は年休申請をしていなかった。
 昼休み、病院から歩いて5分の道立近代美術館に行く。
 常設展の絵を写真撮影していいということを、今日初めて知った。


2017年7月19日水曜日

美砂子海岸 白鳥の湖

 サンクトペテルブルクでは『白鳥の湖』を観た。エルミタージュ劇場。客席数200ほどの小さな劇場であり、もともとはロシア皇帝が皇族たちのためだけに造ったもので、舞台と観客席が極めて近い。

 今年の3月に紋別に行ってきた。私の生まれた街である。

 港には流氷ツアーの波止場があり、そこには砕氷船が2隻係留されていた。毎日のように、大勢の観光客を乗せて沖合の流氷見物ツアーが出ている。そして船に乗る8割か9割は、中国人観光客である。つまり、この砕氷船観光は中国人なくして存在しないものになっている。
 エルミタージュ劇場のバレエ公演も似たものとなっている。観客の殆どは中国人。しかも、唖然とする行儀の悪さからして、ほぼ全て大陸中国人であり、台湾人はいないだろう。考えてみれば今はロシアと中国の関係は良好なのだし、北京からモスクワまではフライト時間で8時間ほど。成田からモスクワまで飛ぶ場合よりも3時間ほど短いのだから、中国人にとってモスクワはとても近い観光地なのだろう。とても上品とは言えないピンク色のジャージーを着た大陸中国人中高年女性の群れを、モスクワやサンクトペテルブルグのどこの観光地に行っても大挙してやってきているのを見ることができる。
 もちろん、エルミタージュ劇場でも。
 そして、この大陸中国人のマナーの悪さというのは唖然とさせらるものなのである。
 中国人たちは、もちろん、開演となり幕が上がりバレエが始まってもお喋りを止めない。大声で隣の仲間と喋っている。場内が暗くなっているというのに、スマホを見続けている。そのスマホも輝度が高く、まるで高出力の懐中電灯のように揺れている。光っているスマホの数も二つ三つという数ではない。
 ここでロシア人の若い女性の登場である。開演前には片手に持つパンフレットを差し上げて場内を歩き、それを売っていたけれども、もちろんロシア語なのでロシア人以外は誰も買わない。ロシア人らしき観客は観客席の一番上の端に、家族連れが10人ほどいる程度である。
 若い女性は、行儀の悪い中国人のところまで行って、「シーッ」と声を上げる。もちろん、ちょっとくらい注意や威嚇の「息音」をたてたぐらいでは中国人は従いはしない。「シーッ、シーシーシーッ!」と続けるロシア人女性。スマホに見入っている中国人には肩を叩いて、バッグやカバンの中に仕舞えとゼスチャーをするが、これも素直にきく中国人は少ない。結局、ロシア人女性が上演のあいだずっと、あっちでこっちでと、中国人に注意するために移動している。
 私は会場の後ろの中央に座っていた。真ん中の通路のすぐ隣の席である。環状のスツールのようになっているその席では、奥にいる中国人が騒いだりスマホを見たりしている。そのため、私の目の前を・前の席の背中と私の膝のあいだの狭い空間を、ロシア人女性が何度も体をくねらせて通り、中国人に注意をする。
 これで真剣にバレエを鑑賞すれと言っても無理無駄無意味である。


 しかし観点を変えてみれば、「大陸中国人(共産中国人)」の連中がどういった種類の人間たちなのかを理解するには、エルミタージュ劇場はうってつけの場所とも言えるだろう。
 「22人の旅の仲間たち」の一人である、60代後半ぐらいの婦人が私の隣に座ってバレエを観ていた。彼女は親から受け継いだ会社を経営していて、やっとその会社を人に任せられるようになって一線から退き、こうして旅行などをしているということだった。バレエを含む観劇を好む彼女は東京在住なので、東京に来た名だたるバレエ団の公演は全て見ている。もちろん、8割か9割の観客を中国人が占めるこの小さな劇場のバレエに最初から期待などしていなかったようだけれども、「それにしてもプリマの脚が短かすぎる」と嘆息していた。
 私の方は全く別のことに注意を向けていた。舞台に登場している多くのバレリーナたち。宮廷に集う若い男女。舞台の中央で王子やピエロが踊っているなか、宮廷に集まった多くの着飾った男と女たちが椅子に座り踊りを見ていることになっているのだけれども、そのうちの右手に座ったカップルを、双眼鏡で私はじっと見ていた。
 女性は鼻筋の通った美しい顔立ち。彼女はしっかりと目を離さずに、舞台中央で繰り広げられているピエロの踊りを見ている。ところが、彼女の奥で横に座ったなよなよとした優男ふうのダンサーは、舞台の上の踊りには興味などはないようで、一心に隣の美しいバレリーナに笑いかけながら話しかけている。それは世間話をしているような雰囲気ではなく、必死になって彼女の歓心を買おうと努力している様子だった。このアレクセイ(私はこの男を何故かしらないがいつの間にかアレクセイと呼んでいた)は、しきりに笑いかけながら隣の美人の気を引こうと、本番の舞台で口説いていた。
 アレクセイは決して端役ではない。単独で踊る場面も、短いものではあるものの割り振られていた。しかし、再び美人バレリーナの横に来て座ると、プラスチックの溶けたような気味悪い白い顔で口説き始める。
 中国人相手のこうした「観光バレエ」に、心底うんざりしているのだろう。最初から真面目に舞台を務めようなどとは考えてはいない。




 アレクセイほどではないとしても、他の踊り手や舞台下の小さなオーケストラの楽団員も、やる気がどの程度あったのだろうか。この「中国人のための観光バレエ」は、中国人がお国に戻って、「サンクトペテルブルグであの有名な『白鳥の湖』を観てきた」と自慢できるようにするためのものであり、公演後の舞台の写真をSNSにアップするためのものである。そのことを全ての踊り手・全ての楽団員が知っている。ただ、それで自分たちに給料が入るのなら諦めるしかないと思っているのだろう、そんな「割り切り・諦め」が踊りにも演奏にも感じられた。
 私はバレエには興味がないので、最初からこのバレエの管弦楽の演奏だけを楽しもうと思っていた。ところが演奏とバレエは不可分である。バレエがこれだけ「やっつけ仕事」なのだから、それに合わせた管弦楽の演奏のほうも軍楽隊のまーちのようになる。やけっぱちの元気よさで、さっさと終えて家に帰ろう、というものである。チャイコフスキーのあの弦楽の美しさは全く表現されていなかった。
 ロシア人女性の脚が私の膝にぶつかる。私の前を通り過ぎた彼女は諦めと怒りが綯い交ぜになった口調で、中国人を叱りつけ、輝くスマホ画面を指先で叩く。中国人は何度も注意されてやっと不承不承にスマホをしまう。舞台では脚の短いプリマが踊り、オーケストラはやけくそな演奏を大音量でごまかしている。
 これがエルミタージュ劇場の観光バレエである。


 その夜、遅くにホテルに戻ってすぐにベッドに入り、疲れていたので
すぐに私は深い眠りに落ちた。
 ところが明け方に(白夜でほとんど夜はないので「明け方」というのは厳密にはないけれども)、不思議な夢を見て、目が覚めた。
 サンクトペテルブルグの空港近くにあるホテル。6階のツインの部屋で、私は鹿児島から来た60歳の男性と相部屋宿泊をしていた。相棒はぐっすりと眠っていた。
2階のソファーに座って夢を回想する
https://taptrip.jp/6375/

資料 海老蔵・小林麻央 誤診見逃し手遅れ死亡

市川海老蔵 妻・麻央さんの入院先と法廷バトルに突入か?
芸能ネタ 2017年07月18日 17時00分
 6月22日に妻でフリーアナウンサーの小林麻央さんが亡くなった、夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵だが、最後に麻央さんが入院していた病院に対して訴訟も辞さない構えであることを、発売中の「女性自身」(光文社)が報じている。
 麻央さんは14年2月、人間ドックで乳房の腫瘍を指摘され、同10月に再度受診。乳がんの告知を受けたが、その時点ですでにがんは脇のリンパ節にも転移していた。
 その後、当時32歳とまだ年齢が若かったこともあって、がんの増殖は止まらず。そこで、同誌によると、16年2月、都内の大病院に入院。しかし、海老蔵はその病院で指示された治療法に納得ができず、昨年7月、日本有数の私立総合病院に転院したという。その病院では、さまざまな治療を受け、当初は麻央さんが拒否していた手術も受けたが、一向に回復せず。5月29日には在宅医療に切り替えていた。
 麻央さんの死後、海老蔵は最初の検診や治療方針が誤っていたのではないかと主張。麻央さんが入院していた個室の値段は1泊5万円。さらには、保険適用外の新薬による治療も受けたため、治療費の総額は3000万円以上。しかし、病院側に治療方針が正しかったかの確認・再検証を求め、その結論が出るまで治療費の支払いを止めている状況。不信感を募らせ、訴訟も辞さない構えだというのだ。
 「大病院に医療ミスを認めさせるのはそう簡単なことではない。しかし、麻央さんはブログで多数の読者を抱え、その死の影響が社会的にも大きかったことから、病院側は海老蔵の申し入れに対して早急に対応しなければならないはず。訴訟となればかなり時間がかかり海老蔵は仕事もこなさなければならないだけに、さすがに、法廷闘争にまでは至らずに事態が解決するのでは」(医療関係者)
 海老蔵がブログでこの件について書き込めば、大問題に発展しそうだ。



http://citizen-journal.link/kobayashi_mao7/
【小林麻央】病院の誤診が海老蔵を訴訟に?! 治療費3000万円の行方は?
小林麻央を誤診した病院について

小林麻央は2014年2月に
検診を受けた人間ドッグで乳房の異常を指摘された。



その後、かかりつけの病院で再検査をした際に、
授乳中のしこりとして、検査は片づけられた。



2014年10月に再び体調不良によって、
受診した時には既に乳がんはリンパにも転移していた。



これは某女性誌によって明らかにされており、
小林麻央が存命中から誤診した病院がどこなのか?
と、いうゴシップが乱れ飛んでいた。



様々な情報を頼りにネット上で
特定として囁かれていたのが、虎の門病院であった。 

同病院の乳腺外科の2人の部長に焦点が辺り、
実名までも他Webメディアなどで露見する事態に至ったが、
あくまで憶測の域を出ない問題であった。


小林麻央の病院を海老蔵が訴訟する?!

2014年10月に誤診されたというかかりつけの病院を
去った小林麻央と海老蔵であるが、様々な治療を模索していたことを
某女性誌の取材で明らかになっている。

その結果、2016年7月に転院した病院が
都内でも有数の私立総合病院であったという。

この病院ではあらゆる治療を受けたものの一向に
病状が良くならなかったことから、
海老蔵が不信感をもっていたのだという。

そして、在宅医療に切り替えた
小林麻央は2017年6月22日に死去した。

この病院には、出たり入ったりの
繰り返しであったが、5カ月ほど治療の為に入院していた。

1泊5万円の個室にそれだけ
入院していれば、部屋代だけでも750万円強に。

それに加えて保険適応外の治療なども受けていたことから、
総額3000万円ほどの治療費になっていたという。

海老蔵は現在、この病院に対しての
治療費の支払いを止めている状況であるというのだ。

小林麻央の病院に更なる誤診があったのか?

某女性誌によると、海老蔵は
最後に小林麻央が入院していた問題の病院に対して、
弁護士を通して抗議しており、訴訟する準備をしていたという。

加えて海老蔵は最初の検診や
治療方針が誤っていたという疑念も生じていたのだそうだ。

海老蔵側は最初の検診と
その後に行われた治療と方針が正しかったのかを、
再度、検証するように投げかけているというのが
現在の状況のようだ。

不信感を募らせたままでは、
言われるとおりの高額な治療費を
支払うことは出来ないと考えているのだという。

小林麻央の病院に対して湧き上がる疑問

あくまで小林麻央や海老蔵が
入院先の病院を今まで公開していなかった為に、
憶測の域を出ない話ではあるが、敢えて・・・。

前述したようにネット上で
あらゆるユーザーが些細な情報やブログ KOKOROなどで
アップロードされている写真画像などを元に病院の特定をしていた。

最初はかかりつけの虎の門病院で
誤診されてがんの発見が遅れて、手遅れの状態になった。

その後、聖路加国際病院に入院した。
(これは某女性週刊誌の詳しい取材情報を元に、多くのネットユーザーが特定)

2016年9月になり、慶應義塾大学病院に
転院したということが話題になった。

慶應義塾大学病院の内装と、
小林麻央が病室からブログ更新している時に、
セルフィー(自撮り)をした際に写っていた背景と合致している為であった。


前述した海老蔵が治療費の支払いを
拒否している病院とは、慶應義塾大学病院に対してということになる。

そうなると、慶應義塾大学病院にも
誤診されていたという見解になるわけだが・・・。

あくまで特定といっても、
ネットユーザーや女性週刊誌が割り出している情報を基にしてあるので、
真実は全く違うのかも知れない。

だが、がん医療というものは、
元々は非常にキナ臭い利権が絡んでいるとも言われている。

実際にそんな国家を挙げての陰謀によって、
本来は間違っているものを受け取らされて、
命を奪われたとするならば、確かに
やるせない気持ちになっても然るべきである。

▲:聖路加と慶応病院を訴えてみても勝ち目は全くないだろう。最初に「誤診」し、正当な手順を踏まずに乳癌を進行させ命を失わせる結果となったT病院(タコ病院)を訴えるしかないだろうが、これとて勝訴できる可能性は3分の1くらいではないだろうか。



お笑い茅ヶ崎市立病院

市立病院で1億円相当の医薬品紛失か…茅ヶ崎
2017年07月18日 22時36分 読売新聞
 神奈川県茅ヶ崎市は18日、同市立病院で昨年9月以降、計約1億428万円相当の医薬品(16種851箱)が紛失した可能性があるとの内部調査結果を発表した。
 調査結果によると、抗がん剤やウイルス感染を予防する医薬品などが、医師の指示がないまま使用済みになっていたり、未使用分が返却されていなかったりした。県警に対応を相談しているという。仙賀裕院長は「市民に心配や不安を与え、おわびします」と謝罪した。
 同市は、同市立病院で主任薬剤師の被告(33)(公判中)が抗がん剤を着服したとして業務上横領罪で起訴されたのを受け、昨年4月から今年3月末までを対象に内部調査を行った。

▲:昔の北大循環器内科教授(東大出身)が、定年後天下って院長になったのがこの茅ヶ崎市立病院。一緒に茅ヶ崎まで付いていった医者もいたはずだが、今頃何をしているのだろうか。



美砂子海岸 プロローグ



プロローグ


 さきほど、9月に予定していたイスラエル旅行と10月に予定していたイギリス旅行をキャンセルする電話を終えた。


 昨日、12日間のロシア旅行を終えて日本に戻ってきたばかりである。

 もう当分海外旅行をする気力や体力を失ってしまったから、秋の2つの旅行に行く気にはなれなくなったという理由もある。しかしそれ以上に、たった今書き始めたこの「物語」を終えてしまうまでは、他のことにはできるだけエネルギーを使うまいと決めたから、キャンセルの電話を入れたのである。
 そう決心させたのは、「ロシアの持っている不思議な力」だった。ロシアに打ちのめされて、自分をもう一度立ち直らせる、には、あの物語を、あの「私だけの絵の伽藍」を、はっきりと建てる必要がある。
 そのために、こうして、キーボードを打つことにしたのである。


「美砂子海岸」というこの物語を書こうと思うようになったのは、もう恐らく20年以上も前からのことである。時々、エピソードをスケッチする文章を書いては、しかし、いつも他のことに関心が移り、 新しい登山、新しいCDボックス、新たに好きになった作家の本を一度に20冊くらい注文して読みふけったり、新しい映画をあれこれ追い、古い作家の本も読み、そして次にはあれやそれ、という具合に日々は流れていった。

 そしていつの間にか20年である。
 聖書の舞台であるイスラエルにも以前から行ってみたかった、「嵐が丘」の舞台であるヒースの丘が続く景色を一目でいいから死ぬ前に見たいと思っていた。だからロシア旅行の次は、真夏の混雑期・8月を避けてから、9月にイスラエル、10月にはイギリス ‥‥と興味のおもむくままに見境なく海外旅行を続けてゆくつもりだった。11月か12月にはネパール旅行を計画していた。

 しかし、今回のロシア旅行で、そんな見境のない世界放浪の計画は私の頭から完全に消えてしまった。それほどに、ロシアという国は不思議な力に満ちていたのである。

「美砂子海岸」という物語を書き終えてしまうまでは、もう二度と海外旅行に出ることはない。

 思ってもみなかったこんな「進路変更」に至る伏線は、しかし、旅行前にあった。

 ロシアに旅行に出る2週間ほど前に、私は帯広までドライブをした。道立帯広美術館で開かれていた展覧会や、北海道ホテルにある能勢真生の絵を見るために行ったのである。
 帯広美術館で目にした2枚の絵には驚いた。
 その絵の前に私は長時間立ち尽くした。
 高坂和子(こうさかかずこ)の2枚の絵である。

 高坂和子は1925年に室蘭に生まれた。1945年に結婚して根室に移り住み、1965年頃から絵を描き始め(40歳ころ)、2005年に死亡している。



生きるとは何なのか、とまで考えさせられる


http://www.gallery-tsubaki.net/2001/010514.html

視覚の体感-高坂和子の作品
 北海道室蘭生まれ、1945年から根室に住み、主婦業の傍ら、39歳から絵を描き始め、現在77歳の高坂和子。道内の公募展に作品を発表していた彼女ですが、近年、札幌、旭川、帯広、釧路などの若手学芸員たちに支持されて、彼らの企画展にしばしば、取りあげられ、大変な好評を博しています。1992年に東京で個展を開いていますが、残念なことに、彼女の作品は、まだ、十分には知られていません。
 繁茂する草むらや草花を凝視し、鉛筆の素描に基づき、キャンバスに、色分けしたクレヨンで無数に交錯する草花の輪郭線の下書きを施します。花々や葉や枝などの重層が精緻に描き出され、手前に露呈する花、葉、枝からひとつづつ絵の具で彩 色します。一葉一葉の色斑の筆触や色彩には、抽象絵画的な意識も認められるでしょう。が、作品全体を見ると、繁茂する樹葉や枝や草花の一つ一つが、うららかな陽光とオホーツクからの穏やかな微風とに戯れているかのように息づいているのです。そればかりか、仄かな暖かさ、心持ちの肌寒さという微温も体感されるかのようです。草花、作家、鑑賞者を貫く"視覚の体感"。絵を見る場の拘束的感覚を解き放つ、高坂和子の"絵画の力"をこの機会に、是非、ご実感ください。


正木基


アイリーンの言葉

あなたはいつか跪いて、泣き暮らすことになるわ 作成途中




2017年7月17日月曜日

美砂子海岸 海老蔵と小林麻央


Vassily Maximovich Maximov (Russian: Васи́лий Максимо́вич Макси́мов; 29 January [O.S. 17 January] 1844 – 1 December [O.S. 18 November] 1911) was a Russian painter, a prominent member of the Peredvizhniki group.
https://en.wikipedia.org/wiki/Vassily_Maximov



(オルセー美術館)

 2017年6月22日に、歌舞伎役者市川海老蔵の妻・小林真央が乳癌のために死亡した。
 6月30日から7月11日までのロシア旅行中も、夜になるとネットで関連したニュースを追っていた。乳癌を結果的に見逃した病院の「関係者」が、病院に非はなく、癌と解った時点で標準的治療を拒否した海老蔵・真央の方に非があるかのような発言を載せている週刊誌があった。
 気功などの民間療法に頼った海老蔵・真央が誤った選択をしたのだと。
 海老蔵・真央はP健康管理センターで毎年検診を受けていた。まともな西洋医学による検査を受けていた。そしてそこで真央にしこりが見つかり、向かった先がT病院である。(T病院は「タコ病院」の頭文字を取ったものであり、決して「虎ノ門病院」という意味ではない。)
 そこで診察した医者は、真央が生検による確定診断を求めていたにもかかわらず、自信たっぷりと授乳期にみられる良性のしこりだと説明し、心配なら半年後に来てくださいと説明したという。
 ところが、最近になってT病院の関係者は(T病院は「タコ病院」の頭文字を取ったものであり、決して「虎ノ門病院」という意味ではない)、「3ヶ月後には来てくださいと説明した」と言いだしている。3ヶ月どころか、8ヶ月後に来た海老蔵・真央が悪い、と言っているに等しい。
 病院関係者がそうした個人情報をマスコミにべらべらと喋っているとしたら、それは明らかに「守秘義務違反」なのだが、そうした「犯罪行為」には触れずに、週刊誌がタコ病院の応援に一生懸命になっている。週刊誌や出版社の幹部とタコ病院が親密な関係にあってのことなのかもしれない。呆れた「不正社会」である。
 一度でも考えたことがあるだろうか?
 P健康管理センターの「まともな外科医」が、乳房を診察し、5分5分の確率で癌だと思うと説明し、タコ病院に海老蔵・真央はかかった。そのタコ病院が成田屋と以前から繋がりがあったからである。
 しかしT病院の外科医は(T病院は「タコ病院」の頭文字を取ったものであり、決して「虎ノ門病院」という意味ではない)、真央が強く組織検査を求めたにもかかわらず、自信たっぷりと(?)拒否した。
 そして8ヶ月後になって同じ医師から癌でしたと告げられたとしたら?
「テメェー、この野郎」
 と医師を怒鳴りつけても何もならない。もちろん、誤診だと裁判にかけたところでどうにもならない。ただし、同じタコ医者の治療を受ける気には到底なれないだろう。
 タコ医者が勧めた「標準治療」を拒否した海老蔵・真央が悪いかのような情報操作をしている連中が、マスコミやネットの中にうようよしていて、2人に対する中傷を繰り返している。
 最初に組織検査をして癌だと判明していたなら、今も小林真央が生きていた可能性は極めて高いだろう。
 海老蔵の悔しさに対しては、慰めの言葉もかけることなどできない。これからも彼は後悔し、自分を責め続けるかもしれない。
 ‥‥などと、サンクトベテルブルグのホテルの中で、ネットを見ながら考えていた。

 海老蔵がインタビューの中で、初めて真央に会ったときの彼女の顔を鮮明に覚えていると話していた。日本テレビのニュース番組のインタビューで、その様子は今でもネットで見ることができる。
 それから付き合うようになり、結婚し、二人の子供を育て、タコ病院のタコ医者の自信たっぷりの見逃しによって乳癌で死ぬ・その間際に、真央は海老蔵に「愛している」と言って息を引き取ったという。
 その最期の言葉を苦しそうに声にする麻央の表情まで、海老蔵は覚えているだろう、一枚の絵として。
 最初に会って二人して両手で握手して見つめ合った場面から、最期の息を引き取る場面まで、海老蔵の頭の中には何百枚、あるいは何千枚もの真央の姿が「絵」として残っているだろう、強く印象に残っているものがその中の何十枚でしかないとしても。

 人はある出来事を10分間や20分間も続く映像としては記憶しない。
 たとえ20分続くような劇的な人生上の出来事があったとしても、それを「絵として」記憶する、その最も印象的な場面を、幾つか、あるいは幾十かでもいい。

2017年7月16日日曜日

美砂子海岸 病む娘





 トレチャコフ美術館の駆け足鑑賞は続いていた。

 『領主の権利(初夜権)』からさして離れていない場所に、これも同じくポレロフの『病める娘』が展示されていた。
 この絵は何かの本で紹介されているのを読んだことがあった。中野京子の『怖い絵』シリーズの本の中でだったかもしれない。
 一目で、こちらを向いている枕の縁が、奇妙な形に窪んでいるのが解る。そしてそれは、紛れもなく白い頭蓋骨に見えるのだった。
 その大きな枕に頭を載せているのが病める娘である。闇に沈んでほとんど顔の表情は見えないけれども、この病める娘は、しかし、大きな目を開いてこちらを見つめ返している。判然としない薄暗闇の中でも、病的に目が窪んでいるのが見て取れる。死期が迫っているのは明らか、そんな顔つきが闇の中から掬い取るように見て取れる。ただし、それは、この本物の絵を前にしてじっと見つめてみて初めて理解できることであり、小さな本にプリントされていてはこの少女の顔つきは読めないだろう。
 病める娘、という主題では、もちろんムンクの例の一連の作品があまりにも有名だけれども、ムンクの作品では心がこの世を既に離れて虚脱してあの世を見つめているような少女の姿が、幾分芝居がかっているのに対して、このポレロフの作品にはそのような芝居じみたところは微塵もない。
 もちろん、枕の窪みは頭蓋骨を示しているのだろうけれども、枕元の小さなテーブルの上に置かれたランプのみの光で、ベッドの上から死へと落下してゆく少女をポレロフは「鮮やかに」描き切っている。
 私はこの絵を見て、陽子の最期を思い出した。
 思い出したものの、すぐに次の絵へと足を進めた。とにかく時間が無かった。


 陽子は私の患者だった。正確にいうと、私たちの患者、だった。

 当時勤務していたS病院では2人主治医制を採っていて、私は5年先輩の医者と二人で患者を担当していた。先輩医者は血液病指導医の資格を持つ専門家で、私は何の専門医資格も持たない、血液病と消化器病の診断治療を訓練している医者だった。当時は今と違って明確な研修医制度はなく、大学医学部を卒業して1年間を大学病院で研修し、その後は医局の命じるままに指定された市中の病院で研修を続けるのが普通だった。
 私は大学病院での1年を終えると、そのまま札幌市内のS病院に勤務するようになった。胃カメラや大腸カメラの指導を受け、骨髄検査や白血病の化学治療、そして骨髄移植による血液疾患の治療を教えてもらっていた。
 S病院に勤務するようになって3、4ヶ月経ってから、陽子が紹介入院となってやってきた。大学入学時の胸部レントゲン写真で縦隔に異常を認め、大学病院であれこれ検査を受けたのちに巨大縦隔腫瘍・ノンホジキンリンフォーマという診断を受け、自家骨髄移植併用の化学療法を受ける目的でS病院に転院してきたのである。
 当時は自家骨髄移植併用超大量化学療法という特殊な治療を、北海道の大学病院では全くやっていなかった。S病院は東京以北では圧倒的な数の骨髄移植治療を行っており、最先端の技術と設備を持っていた。


 ノンホジキンリンフォーマというのは「総称」であり、その中にはさまざまなタイプの悪性リンパ腫瘍がある。化学療法(抗癌剤治療)が極めて有効なタイプもあれば、逆に極めて効きにくいものもある。陽子の腫瘍はどちらかといえば後者のタイプだった。

  数クールの多剤併用化学療法、限度一杯の放射線療法、そしてその間に陽子の骨髄採取と 幹細胞の保存。厚生省班会議のガイドラインに沿って治療は順調に進んだが、縦隔腫瘍の縮小はとても劇的なものとは言えなかった。
 それどころか、治療が半年近く経った頃から腫瘍が急速な増大傾向を認めたため、それまで使っていた抗癌剤を変更し、骨髄移植による治療を延期することになった。簡単に言ってしまうと‥‥肺や骨髄に転移した腫瘍が増大しつづけ、新たな抗癌剤が効かなければ死の危険があった。
 もっとも、他人が陽子を見れば、そんな重病人とは思いもよらなかったことだろう。まだ顔色もよく、食欲もあり、笑い、面談室では見舞いにやってきた大学の同級生の女の子と楽しそうに話をしているのを見かけることもあった。陽子は北大の文学部の一回生だった。
 相棒の血液学病専門医の医者は、もちろん、陽子の親に治療の効果について何度も話をしていた‥‥効果があまり認められないどころか、急速に転移した病巣が拡大しており、厳しい状況であることを。
 陽子本人にはそうした厳しい話をしてはいなかったものの、感受性の高い19歳の女子大生が、親の顔に浮かぶ表情を観察したり、吐き気で苦しめられる抗癌剤治療を自分が何日も耐えなければならない事実、そして周囲にいる多くの抗癌剤 治療を受けている患者との会話を通じて、自分の状況がどれほど危険なものかを、しっかりと認識していたに違いなかった。
 S病院には重病人が多かった。個室の数には限りがあり、そうした個室は常に生死の境にある患者で埋まっていた。まだ体調が悪化しているわけではない陽子は、ずっと大部屋である6人部屋に入っていた。

 12月に入って病棟スタッフとか、外来担当のスタッフとか、病院医者全体で、あるいは内科の医者で集まって、といったふうに、いろいろな忘年会が入ってきた。ススキノの居酒屋や料亭に集まり飲み食いする。


 あれは12月中旬、病院全体の忘年会が中央区のどこかのホテルで開かれた土曜の夜のことだった。2次会に行く職員たちと別れて、私ともう2人の医者はタクシーで病院に戻ることにした。私は酔っていたのでもちろん病院で仕事をするわけではなかったが、他の2人はほんの少ししか酒を飲んでおらず、病院に戻ってから学会の準備などのデスクワークをするつもりだった。医局の予備のベッドは幾つも空いており、私はそこで寝て、翌朝からカルテの整理をするつもりだったし、朝から病棟を回ることもできた。何より病院の駐車場に車を置いてあるので、自宅に戻ったとしても翌日車を取りに出てくるのが面倒だったので、病院で寝ることにしたのだった。


 タクシーの後部座席に座った忘年会帰りの3人の医者が何を話していたのか覚えていない。出たばかりの12月のボーナスのことか、それとも家族に何をクリスマスプレゼントを買う予定なのかとか、私の隣に座った医者が買ったばかりの外車の性能自慢でもしていたのかもしれない、とにかくホテルでホロ酔い加減になった高給取りの医者3人が、何かしら優雅な暮らしを匂わせる話をしていたことは確かなことだろう。というのは、運転席でハンドルを握っていた運転手が、突然怒り出してこう吐き出したからである。

「あんたらはいいよ、俺たちタクシーの運転手なんて年収180万にもららないんだぞ、これでそうやって嫁さんと子供2人を養っていけると思ってるんだ」
 後部座席の3人の医者は沈黙した。
 もちろん、そんなふうにタクシー運転手が怒り出すのは「運転手のマナー違反」である。タクシー運転手の給料が極端に低いことを、車に乗り込んで逃げ場のない客にあれこれ訴えてみたところで何もならない。それは運転手も承知していることだろうし、こんなふうに「暴発」ばかりしているとも思えない。
 話の内容と目的地から、一流ホテルで忘年会を終えて豪勢な話を続けている3人の男たちがお気楽に生きている医者であると判り、自分の感情を抑えることができなかったのだろう。あるいは、何か切羽詰まって金に困っていたのかもしれない。

 毎日病院で忙しく働いていると、この世の不幸は全て病気にあるように錯覚してしまう。病気さえ治って、退院して、社会で生活してゆけるようになれば幸せなのだ、と。
 ところが当然のことだけれども、世の中には「病気」以外の苦しみもあるのだ。今ではすっかり具体的な忘れてしまったが、その夜、病院に到着するまでのタクシーの中でこの運転手は、どれほど働いても・奥さんがパートに出ても、生活費と教育費で手元には一円も残らないどころか、借金を重ねなくては生きてゆけないという話を続けていた。
 後部座席の医者3人は、病院の夜間出入口の前で料金を払って降りると、消え去るタクシーの赤いテールランプを見届けてから、顔を見合わせて苦笑した。
「参ったね、さんざん愚痴を聞かされた」と一人が肩を揺すった。もう一人が応えて、
「すっかり酔いが覚めてしまったね」
 守衛が監視している玄関に入り、天井からの明るい光が私たち3人を浮かびあがらせた。その時になって初めて、私は自分たち3人があの運転手の子供とでも言えるほど「若い」ということに気づいた。3人とも27、8歳だったのである。
 あの運転手が何故自分を抑えられなかったのか、ふと、解ったような気がした。
 あの運転手は再び客の拾えるススキノあたりに戻り、タクシーの長蛇の列の中に紛れ込み、再び客を乗せるまでじっと車の中で生活の苦しさを思うのだろう。
 それをもちろん私なんかがどうすることもできはしない、と思いながら、 エレベーターに乗り込み5階へのボタンを押した。

 青い上下の術衣に着替えて予備のベッドに入った。まだ11時前だった。直ぐに寝入ったはずなのだが、しばらくすると吐き気がこみ上げてきた。飲み過ぎていたのだろう。
 5階の職員トイレは小さく、しかも夜中12時の看護婦交代で、病棟から看護婦が次から次と上がってくる。便所の前で吐き気で青くなっている医者が見咎められるのは、しかも病院の中で、許されないだろう。
 私は建物の南端にある、夜間は誰も使わない階段を使って1階まで降りた。防火扉を開けて、外来部門に入る。もちろん、廊下も便所も非常灯が点いているだけで薄暗い。人の気配は無い。
 真夜中の外来部門の便所に入り、便器の前に立った。もちろん、便所の明かりを点けると怪しまれるので(守衛が気づくかもしれなかった)、明かりを点けずにしばらく軽く膝を折って顔を少しだけ便座に近づけた。やがて、予想通り、胃の奥から吐物が込み上げてきて、吐いた。一度出てものを水で流し、まだ